逃げて 逃げて 逃げて
こっちへ来ては 駄目
意識がふっと浮上したのを感じた気がした。
瞼を開けると、いつもの見慣れた白い天井。
ばっと勢い良く飛び起きる。手を頬にやる。いつもの肌の感触がした。
はぁ、と安堵の息を吐き出すが、今の今迄見ていた夢がどんなものだったかが思い出せない。
とてつもなく、恐ろしかった気がする。冷たくて、怖くて______________________・・・・・・・・。
そうだ。確か、ナルの事を忘れていた・・・・・・・・・・・・・・?
そういえば、と気が付いて、隣に寝ているであろうナルの方を向くと、突然起こされてとてつもなく不機嫌、を露にしたナルが横になったままこちらを睨みつけていた。
「オハヨウゴザイマス、谷山さん?」
笑っているけど笑ってない、表面だけの笑顔。
知らないうちに冷ややかな汗が背中を伝っていく。
「ご、ごめん・・・ナサイ」
「何がですか?前触れもなくとなりで寝ている人間のことも考えずに布団をひっぺがすように飛び起きたことですか?」
恐る恐る謝罪をしてみるが、効果の気配ナシ。目の笑っていない笑みが深くなっただけだ。
うう、そりゃあ突然飛び起きて悪かったですよ、布団も起き上がる時半分くらいもってっちゃって寒かったでしょうよ、でもでもそんなに怒ることないじゃんよ!!
ひっぺがす、なんて余計な日本語ばっかり覚えて!
一人でぐるぐる頭の中で文句を言っていたら、ナルが諦めた様に溜息を吐き、起き上がった。
「起きるの?」
「もう目が覚めて眠れない」
うっ。ほんと厭味たらしいんだから。
ナルはベッドから出ると、着替える為に服を脱ぎ始めた。
咄嗟に後ろを勢い良く振り返る。着替えるなら着替えるって言ってよね、もう!
私はナルの方をなるたけ向かないように注意しながら、部屋のドアへと歩く。
ナルの身体ってきれいなんだもん。オトコノヒトなのにさ。白くて細くて、どこか色気なんかあっちゃったりしてさ!見てるこっちが恥ずかしくなるんだい!
ナルの方から溜息が聞こえた。
「・・・・・・・・・今更何恥ずかしがってるんだか」
「ううううるさいなっ!恥ずかしいものは恥ずかしいんだからしょうがないでしょっ!慣れてたまるかっての!」
きーきー叫びながらドアを開けて、寝室を後にする。まったく、あの男は。
ちらりと時計を見ると、もう既に針は八時半を廻っている。
あの仕事場だし、私は今日学校はないからとくに急ぐこともないが、ナルは仕事バカだから、きっとなるべく早く仕事に行きたがる。
早めに朝ごはんを作らなければ。
私はキッチンを睨みつけながら、袖をまくった。
からん、と金属音が響いて、ドアが開いた。
「あ、安原さん!おはようございまーす!今日は早いですねぇ」
ドアを開けたら直ぐにソファに座る安原さんが目に入ってきた。
「おはようございます、谷山さん、所長。今日も一緒に出勤ですかぁ〜・・・仲睦まじくて羨ましい限りです♪」
「もうっ、そんなんじゃないですってば!」
安原さんがいつもの、もうお決まりになった冗談を言う。
私は、安原さんのギャグを照れながらかわす。
いつもと何ら変わらない日常だ。
きょうも一日、たのしくなりそう。
お茶でも淹れようかな。リンさんはいつも一番早いから、今日も居るだろうし、四人分。
「お茶淹れますね、安原さん、何が良いですか?」
「あ、どうもです。僕はなんだかミントな気分なのでミントティーを〜」
「ミントな気分てどんなですか」
笑いながら上着を脱いで掛ける。
リンさんは中国茶ならなんでも飲むし、ナルは・・・・・・・・つて、いない。早くも所長室へ篭ったようだ。
さて、お茶汲み仕事でもしますかー、と言いつつ給湯室へ足を運ぼうとした瞬間、からんとベルが鳴った。
こんな早くに珍しい。だが来た客が、いつもマトモな依頼を持ってくるとは限らない。
被害妄想や誤解、なかにはただこの事務所のメンバーの誰かに近づきたかたっただけ、なんて人もいる。
「いらっしゃいませ!ご依頼ですか?」
そんな疑いすら抱きながら、ドアの方へと振り返る。
ドアの前には、ふわふわと茶色の柔らかそうなロングの髪をした、優しそうな女の人と、その隣に背の高い短髪で黒髪の男の人が立っていた。
きぃぃん、と、高い音が耳を貫いた。
来ては駄目
こっちに来ては___________________・・・・・・・・
耳鳴りがした。
誰かが叫んだ。
血が飛んだ。
誰かが泣いていた。
駄目・・・駄目
逃げて_________________________________・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!!!!!!!
「あのう・・・?」
「谷山さん?」どうかしましたか」
安原さんと依頼人の声が近くでして、はっと気が付く。
何だったんだろう、さっきのは。感じたことがある気がする、あの空気。
干乾びて、けれどぬるりと滴る水が伝っては落ち、まるで黒い霧に包まれたような、あの。
ふるふる、と、浮かんだビジョンを消すように頭を振って、笑顔をつくった。
「ご依頼の方でしたら、こちらへお座り下さい。いま、お茶をお持ちいたしますね。」
依頼人を客用のソファに促したあと、走って給湯室へと向かった。
給湯室に着いても、荒くなった心臓の動きは治まらない。
せめて耳鳴りが少し静まっただけだ。
その場に座り込んで、深呼吸をする。
何でだろう。あの女の人を見た瞬間、耳鳴りに、眩暈に____________________________・・・・・・・・・・。
感じた事のある気がする、恐怖感。嫌悪感。絶望感。
鼻を貫くような血のにおい。
叫び声。
まるで体験したかのような、リアルさ。
思い出すうちに、また少しずつ呼吸が荒くなって、耳鳴りがまた強くなる。
いやだ。やめて。止まって、止まってよ________________________________・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「依頼人が来たと聞いたが___________________________・・・麻衣?」
聞きなれた声が、耳鳴りを通り抜けて耳に沁み込んだ。
一瞬で、耳鳴りも、眩暈も、呼吸ですら静まった。
ゆっくりと、声のした後ろを振り向けば、ナルがこちらの様子を窺っている。
ナルがいる、ということだけで、こんなにも心が落ち着くのは何故だろう。
「どうした。だいじょうぶか」
ナルは私に近づきながら、いつもの無表情で、だけど瞳には少しばかりの心配を込めた優しげな目で私を映す。
私は知らないうちに、ナルの細い腰に抱きついていた。
ナルは一瞬身体を強張らせたものの、すぐに私の頭を撫でてくれた。
「何があった」
ゆっくりと、ナルは訊く。答えたかったけれど、声が出そうに無かった。そして、私もその答えをもっていなかった。私自身、自分に何があったのかわからないで居るのだ。
私は首を横に振って、ナルの腰を抱きしめる力を強める事しか出来ない。
ナルは、諦めたように溜息をついて、ぽんぽんと私の頭を優しく叩いた。
「・・・・立てるか?」
今度は、ナルの質問にこくりと頷く。ナルに促されながら、ゆっくりと立った。
「お茶・・・・」
呟いたが、ナルはいい、とだけ言って客間に向かった。
私はまだ、あの女の人と会いたくないで居た。
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