誰かの手がぱちぱちと私の頬を叩く。


この手は・・・きっとあの人の手。不器用だけれど優しい、あの人の手。

私は目覚めようとするけれど、深い深い闇のなかで、意識を浮上させようとした私の足を、何かが引っ張る。
とにかく私は行かなくちゃいけない気がしたので、引っ張る手を振りほどこうとした。しかし、何かの手は強い力で私の足を掴んだまま離してはくれない。




離して?私、目を・・・・・さまさなくちゃ。

駄目だよ。目を覚ましちゃ駄目だよ。


足を掴む誰かが囁く。女の人か男の人か、何故か判らない。ただ、恐ろしいほど低く響く声だった。


どうして駄目なの?呼んでいるの。

駄目だよ。目を覚ましちゃ駄目。


幼い口調の「何か」は、頑なに私の足を掴んで離そうとしない。


どうして?私の大切な人が呼んでいるの。

大切な人って、だれ?


「何か」の、口調が変わった気がした。
はっきりとした強い口調で、「何か」は言う。


大切な人って・・・それは・・・



何かが私の言葉を遮る。名前を口に出来ない。


オマエは、その名前を言えない筈だ。



はっきりと、「何か」の口調が変わった。
何かの声に纏わりつく、冷たい感情が渦巻く。
怖い。
怖い。一体、この声の持ち主はだれ____?


タイセツナヒト≠ェ誰かも判らない筈だ。目を覚ますな。ここでじっとしていれば良い。


「何か」は、重く冷たい声で言う。
足を掴む手の力が、痛いくらい強くなった。


無理だよ。だって、あの人は私の_________・・・・

・・・・・・私の?
私の・・・・・何だっただろう。

あの人は私の___________?


「何か」の、足を掴む手がふいに離れた。














「・・・・・・・・・・・・衣、麻衣・・・・・・・麻衣っ!」
「はぃぃっ!!」


名前を強く呼ばれた反射で、布団を蹴飛ばす勢いで飛び起きた。

がばりと身を起こせば、顔の真ん前にあるのは見慣れた、けれどいつ見ても見惚れてしまうような、綺麗なナルの顔。
しかし、流石に近すぎた。顔と顔の間隔は多めに見ても10センチ程度だ。


「やっと起きたか」
「ぎゃぁぁぁっ」

色気の無い悲鳴だと、自分でも思った。


これまた反射的に、音がしそうな勢いでナルから離れた。
ナルはまるで何もしていないのに心外、と言う様に肩を竦める。

近い、近すぎだ。しかも、ここは所長室のソファ。
その上相手はあのナル。どきどきしないわけがない。



私は真っ赤になって口をぱくぱくさせる。ナルはそんな私の反応を見て、また今更、とでも言いたげな長い溜息を吐いた。
たとえ殆ど一緒に寝ていると言っても、起きて突然ナルの超絶美麗な顔が10センチ前にあれば、誰でもびっくりするよっ!!

心臓がうるさい。静まってくれない、憎らしいこの心臓。頬もかなり熱い。
もう!こんなにもすぐ「ナル」に反応してしまう自分の身体が恨めしい。


うー、と唸って頬を覆う私を見て、ナルはまたもう一つ溜息。



「・・・・・何があった」



ナルが、私の目を見据えて言う。あまりの強い視線に一瞬どきりとした。
じ、と、私だけを見つめるその闇のような瞳に、吸い込まれそうな気さえした。


それでも言いたくなくて、私は視線を中宙に泳がせて見るが、ナルの威圧には勝てない。
諦めてふぅ、と溜息を吐いて決心を決めてからナルの瞳を見据え返した。




「夢をね・・・・・・・・見たの。昨日と、たったいま。いつもジーンが見せてくれる夢と似てて・・・でもどこか違うの。ジーンは出てこなかったし。」
だから警戒してはいたんだけど。と呟くが、ナルはそんな事はどうでもいいらしい。
「どんな夢だ?・・・・・最初から話してみろ」


私は、再び込み上がる恐怖に気が付かないフリをして、相変わらず無表情なナルに話した。



きのう、どんな夢を見たかということ。
そして、何故かあの女の人の近くに居ると頭痛がして眩暈がして立っていられなくなるということ。
さっきみた夢のことも、全部。

でも、夢のなかで私が何故かナル≠思い出せなかった事は、言わなかった。
どうしてか判らないけれど、言っちゃいけない気がして。









「・・・・・・・・・なるほど。興味深いな」

全て話し終わると、ナルは顎に手を当てて考える姿勢をとった。
「その、夢に見た家に、麻衣は心当たりがあるか?」
ナルにそう訊かれて、私はふるふると首を振る。
あの家の記憶は一切無い。欠片も見覚えが無いし、多分に行った事も見た事もない家だと思う。


「その声≠ヘ「目を覚ましてはいけない」と言ったんだな?」
ナルの質問に、今度はこくりと頷く。
「でも、その声≠ノも聞き覚え、なかったよ。」


ナルは眉間に皺を寄せて考え込む。
判らない事だらけだ。声の主も、何で目を覚ましちゃいけなかったのかも。それに・・・・・・・あの、ドアのむこうの、目・・・・・



目・・・・・・・・?






「そういえばナル・・・・夏希さん、「ドアの向こうに犯人が居て、目が合って、ぎらりとしたあの目が怖かった」って・・・言ってたよね?」


ナルがはっと顔を上げる。
どういうこと?じゃあ、夢でのあの目は、犯人の目なの?


ドアの隙間から覗く鋭利な瞳。狂気に支配された、狂った目。



ぞくりと背筋が震えた。



「そうか・・・だから「来ては駄目」か・・・。麻衣が見た夢は、7年前の事件の過去視と言う事か・・・」
ナルの眉間の皺が一層深く刻まれる。ナルは軽く唇を引き結んでいた。
「では・・・この事件は、少なからず麻衣に何か関連性があるのだろう。」

心臓からずくりと震え上がった。



あんな瞳に、もしもう一度出会ってしまったら。



腕が小刻みに震える。ぎゅぅ、と腕を強く掴むが震えは治まりそうに無い。

こんな事件は、今迄経験して来た筈なのに、どうしてこんなに恐怖するのだろう。
少しは慣れたはずなのに。


ただ進歩していないだけか。それとも____________・・・・・・・・この事件が特殊なだけか。



前者だと願いたい。






ふと、ナルが立ち上がった。
私は反射的にナルを見ると、ナルは瞳に強い意志を込めて、低く言った。







「・・・・・・・・・・・・・・・この依頼を受ける。」








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